柿香亭雑記

原田種夫

家 訓



泥棒 世上騒然としていた幕末のころ、盗賊がひんぴんとして出没した。深沈として夜がふけていた・・・。主は、ふと、表の方にあたつて変な音を聴いた。盗賊だと直感した。足音を忍ばせて、入口の土間に近づいてみると、大戸を盗賊が鋸で切るところである。主は、跣足で、そこのところに近よつて、じいつと、見ていた。鋸がしきりにうごき、縦と横を切つた。手をさし入れて、かんぬきを外そうとするのである。

 切つたところから、盗賊の右手がそろそろと入つてきたとたんに、主人は、ぐい、と両手を持って、その右手をつかんだ。はつとして盗賊はあわてたが、むんづと掴まれた手は、抜こうも引こうもならぬ。表には、二人ぐらい、べつに盗賊がいる気配、そいつらもあわてたようだが、もうどうにもならぬ。しばらく、盗賊の手をつかんでいた主人は、しづかな落ちついた声で、家のものにいつた。
『おい、金を持つて来い』

 盗賊はいよいよあわてた。さつと刀で右手をやられると信じた。脂汗がつたつたと流れてくる。えらいことになつたと慌てた。大きい声をだしたら人が集まつて来て捕らえられる。盗賊は観念の眼をとじた。すると、どうだ。主は盗賊の手に若干の金を握らせて、その手を放してやつた。盗賊は感激した。

 『恩は忘れねえ。おれの目の黒いうちは、ぜつたいに、お前さんの家に盗賊は踏みこませねえから安心しなせえ』

 そういつて盗賊は消えいつた。それ以来、この浮羽郡田主丸の『若の寿』に盗賊が入らないという。これを家訓にしている、と銘酒『若の寿』のご主人が語つた。つまりは、人が困った時に乗ずる惚れ、ということだ。この挿話の主人公は腹が座つた仲々出来た人物であつたように思はれるのである。


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