元禄の酒    田辺聖子


 九州の日本酒もよろしきもの、ということを私は最近、発見した。
 私は平素、伊丹の酒どころに住んで、「白雪」や「老松」「大手柄」に親しみ、わけてもいつも「老松」を飲むとあちこちにいうたり、書いたりするので、
「老松もええせんでんになりまんなあ」
と人は笑うけれど、実際、旅に出て他のお酒を頂いても、家へ帰って「老松」を飲むと、ああやっとわが家へ着いた……という気になるから妙である。

 私は焼酎もウイスキーも頂くけれど、やっぱり夜は日本酒からはじめないといけない。
 それで旅先でも必ず日本酒を飲むが、九州は福岡の画家、寺田健一氏のお宅で頂いた「西の関」、これはおいしいと思った。九州のたべものは日本酒よりも焼酎に適うような気がしていて、九州ではおいしい日本酒はないのかと思っていたのであった。

 このあいだ、秋のさなかに九州へいくことがあって、湯布院の泊まりを発って久大本線に乗った。福岡へいく前に「田主丸」というところで下りようというプランである。RKB毎日のディレクター、辻和子さんが、すてきな老紳士、すてきな中年紳士をご紹介しましょうといわれる。
 紅葉黄葉の山肌やすすき、コスモスの村々をながめながらゆく久大本線は、私にはもう、なつかしい眺めになっている。湯布院の湯が好きで、ここへ来ては福岡で遊んで帰る、というパターンを何年もやっている。

 江戸時代に代官所が置かれて、政治文教の地として栄えた日田を過ぎる。時節によるとここで鮎ずしが買える。松本清張氏の「西海道談綺」という小説にも出てくる所……などと考えているうち県境を越えて福岡県浮羽郡に入る。私は田主丸ははじめてである。
 田主丸の町は筑後川沿いの、緑濃い田園都市である。耳納連山のふもとにひろがっていて、植木の生産では日本屈指というだけに、どこまで走っても美しい緑があった。
 ここは巨峰ぶどうの主産地で、ここで巨峰ワインを作っていられる林田伝兵衛氏と、ご父君の林田博行氏が、辻さんご推奨の「すてきな紳士方」なのであった。

 いやほんとうに、いかにも豊かな筑後平野の、明るい陽光のもとでお目にかかった林田さんたいは、快活でアイデアゆたかな、お酒づくりの熱意に燃えた、たのしい方々だった。
 美しい婦人とともに歓待して下さったのだが、私はここではじめて、伊丹の居酒屋で飲んでいた胡麻祥酎の「紅乙女」が、林田博行さんのはじめられたものであることを知った。「紅乙女」の需要がたいそう伸びているということで、それは慶賀すべきことであるが、「すてきな中年紳士」のほうの林田伝兵衛さんは、これは日本酒に命を賭けていられる方で、元禄時代の始祖から数えて十三代目とのこと、「若の寿」というお酒を代々、造りつづけていられるそうだ。
「日本酒がなくなるときは日本民族がほろぶ時だと思います」
と気焔をあげられていた。

 この「若の寿」は淡泊で、さらりとしたのど越しのお酒であった。どんな料理にも添う気がしたが、更にそのあと、山の中腹にたてられた古雅なおもむきの農家の囲炉裏ばたで、粗朶をくべながらいあただいた「元禄酒」はちょっと類のない美禄であった。
 色は黄金色で、味わいはコクがあり、奥行きふかい。
「元禄諸白」の酒を再現しようと、林田さんはいろんな文献に当たり、アルコールや甘味料など一切使わず、昔の製法そのままに試みられたそう、杜氏は寝る間もなくつききりで、人手も普通の酒の倍はかかったという。

 これを小さいグラスに冷のまま(肴はイリジャコをつまんで)口にふくんだときの、
(もわもわーん)
 とくる陶酔は忘れがたい。酒のエッセンスが口中から静かにひろがり、辛み苦みを通りすぎたあと、それがまろやかな甘みに昇華する。その気韻をたのしむ。

 酒づくりの技術と愛情と気迫が凝った、こういう酒は、酒席の応酬などで、ぞんざいに扱われたり、ガブ飲みしたりするものではないと思った。一滴一滴を舌にころがして楽しみ、過ぎゆく一瞬一瞬を呼びとめたいような、ほんのりし酩酊気分を興じるもの。
 もしそれ、心おきない友人たちと飲むときは、もう言葉かずも多くは要らない、たがいに微笑をふくんでうなずき交すだけでよい、そしてこのような、まったりしたお酒を共に飲むという幸福感を共有するだけでよい、というようなお酒である。
 小さなグラスなのに、私は二杯ばかりで気持ちよく酔ってしまう。同行の友人は、紹興酒に似てるといっていた。

 元禄のお酒はこんな味だったのだろうか。してみると、西鶴も(彼は下戸だったというけれど)こんな山吹色の酒を飲み、近松も芭蕉もこういうのを含んだのだろうか。
「帰る人を引きとめて飲ませるのを『わらじ酒』といいましてな」
 と、「すてきな老紳士」のほうの博行氏にまたすすめられ、もういちど「若竹屋の元禄酒」を一杯いただいて、心もあたまも、「もわもわーん」「ぽわーん」となって、珍重すべき舌の余韻、酔いの風趣をたのしみつつ、柿の実の色づく筑後平野へ下っていった。焼酎がいま大ハヤリであるけれど、この次はやっぱりまた、日本酒が好まれるのではあるまいか、日本人には何といったって日本酒だもんなあ、なんてかんがえながら。


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